2001年7月から12月の間に、沖縄タイムス朝刊唐獅子欄に載った、齋藤直人の多良間レポートの校正前原稿を掲載する。
掲載にあたっては沖縄タイムス学芸部玉城氏の承諾を得ている。
7月2日 私が多良間に来た訳
7月16日 多良間の豊年祭スツウプナカ(豊年祭スツウプナカ)
7月30日 夏の老人運動会
8月13日 多良間のお菓子は揚げたてが上手い(揚げたてパナパンビン)
9月10日 八月踊りの担い手
9月24日 多良間シュンカニ
10月8日 多良間のマッツー
11月5日 ナガサキの浜
12月3日 多良間とウミガメ
12月31日 多良間にも春が来る
静岡県の天竜川東岸、磐田郡豊田町(いわたぐんとよだちょう)生まれの私にとっては、なぜか多良間が故郷です。
私の生まれ故郷の田園風景は、人なつっこい近所付き合いと共に今はもう消えつつあります。
字に一軒残ったお店はしばらく前からコンビニになっていましたが、安売りの大型店に圧されて店をとじました。
親たちも年を重ね、出歩くのが不便になろうかという時になって、歩いていける距離にお店がなくなってしまったのです。
多良間の方が私の故郷の面影を残しているのです。
4年前に兄の歯科診療室をやめ、鶴見大学の予防歯科学教室に実習補助員として入りました。
アルバイトの歯科検診は日当が良いのですが、月に3件では持ち出しが多く、たちまち生活保護を申請しようかという状態になりました。
そんな時、パキスタンの山奥で植林をしているボランティア隊への参加を求められたのです。
2ヶ月食いつなげるチャンスでしたから、高い山に登ったことがなかった私ですが、4千メートルの高地までも行きました。
そこには砂交じりのパンをかじって歯がすり減り、痛むから抜いてくれという住民がいっぱいいました。
私は小麦粉やそれをこねる水に砂が混じっていなければ良いのにと思いました。
そこで帰国後、JICA(国際協力事業団)のプライマリヘルスケア専門家の養成コースを受けることにしました。
そこへダイビング好きの友人から電話が来たのです。
「多良間村で歯科医師を必要としているから行ってみないか?」
私が初めて多良間、いや沖縄に来たのは3年前の2月。
寅年の生年会の次の日でした。その日は久しぶりの晴天で、昼間は半袖で充分でした。
豪雪の川崎から来た私は、「ラッキー」と喜んでいました。
夜には島の東にある三ッ瀬(ミッジ)公園でオトーリをまわされ、酔った勢いで安里前村長と「歯科医師として多良間に来る」約束をしてしまいました。
3月の終わりに県庁に寄りながら宮古から多良間に入りました。
それから3年と少し。やっと800人目の受付をしました。
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7月16日 多良間の豊年祭スツウプナカ(豊年祭スツウプナカ)
2年前スツウプナカが近づいた頃、「職はありますか?」と聞かれました。
多良間ではスツウプナカに関する仕事を持つことを「職がある」と言うほど、多くの村人が参加する祭りです。
スツウプナカは4カ所の祭場(シュニ)毎に、老人座、幹人座、ブシャ座、海(人)座、供番座といった組織を持ち、それぞれの役割をこなすことで、滞りなく祭りを進行していくのです。
私が参加した供番座は、神様への供物や客(各御嶽の司、二才頭、村の要人)のお弁当などを用意します。
例えば海座が補ってきた魚をさばき、サシミやカマボコを作り、小さな魚は油で揚げてしまいます。
スツウプナカは、5月か6月にある豊年祈願祭です。
竜宮の神様への豊作感謝から始まったので、本番の前に神様を迎えておきます。
順路最初のナガシガーでは昼から供物とお酒を捧げて祈りが始まります。
その供物が客に振る舞われた後、ヤッカヤッカが始まるのです。
ヤッカヤッカに使うミシュ(神酒)は、ブシャ座が数日前に仕込んだものです。
一番ブシャ2人の内1人は、ミシュを入れたバタスを、もう一人は盆に載せたツヌジャラ(お椀の左右に腕が付いたもの)を持って来て、神様に祈った後、司から順に囃して行きます。
囃子は次のように始まります。
ウヤキツヌジャラヲ ピャーシバドゥユヤナウリ゜
(見事な角皿を持って囃せば豊作になる)
次に2番ブシャがユナウスジャラ(大きめのお椀)で同じように囃して回ります。
全体が終わって弁当をいただいた客は、司を先頭に次のフダヤーへと歩いて行きます。
同じようにパイドュニからアレーキへと4祭場を巡る頃には日が暮れます。
70回以上も囃して立ったり座ったりを繰り返した客達も帰っていきます。
でもそのごも夜通し祭りは続くのです。
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7月30日 夏の老人運動会
オフィス街とベットタウンを往復していた私は、多良間においても土曜・日曜日の、あるいは昼12時から、さらに夜6時からの歯科診療があれば、島の人達の役に立てるだろうと考えた。
そこで、診療時間を午前9時から午後1時までと午後3時から午後7時までとし、火曜日と金曜日を休日とした。
しばらくすると、中学生は夕方の7時まで部活動だから、もう一時間遅くできないかと言われた。そこで午後は4時から8時とした。
割と高齢の患者さんが多く、時間が自由になるのか、待合室が混むこともあった。
しかし突然誰も来ない日があった。何度か経験して、どうも何か行事があったようだと気がついた。
ゲートボールが多かったが、何か行事があればみんなが関係するようだと気づいた。
ちなみに今年の9月から11月の18回の日曜祝日の内11日がすでにうまっている。
多良間島一周マラソン大会、村陸上競技会、村運動会、幼稚園・小学校の運動会、中学校運動会、駅伝大会、子供駅伝大会、シュンカニ大会(文化協会十五周年)、敬老会、そして八月踊りである。
島の人口が少ないせいか、休日がほとんどない人も出てくる。
そんな状況の中で今年の老人運動会は、7月1日と決まった。
つまり行事の混む秋を避けたい、去年のように寒くなりかけてから(11月下旬)もいやだという考えだったようだ。
6月中に開催しようとしたが、結局7月にずれ込んだ。
このまますると、脱水症状で何人かが病気になるのではないかと心配した。
実際には村長選挙が近づいたので、その前の週の三世代ゲートボール大会と共に延期になった。
10月に村民運動会と前後して開催されるだろう。
私は、私が参加したい行事を選ぶ状況から一転して、いろんな行事への参加が求められるようになった。
最初はとまどったが、人がいれば町という疎外された世界から、他人との付き合いが村を形成していく(多くは血縁)世界へ転入出来たことが、今はたまらなく嬉しい。
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8月13日 多良間のお菓子は揚げたてが上手い(揚げたてパナパンビン)
台湾に被害を出した台風が近づいた日に、多良間で20年前のタイムカプセルが開封された。
関東や沖縄圏内などから戻ってきた同窓生でにぎわった。
当時の1年生から3年生までがサトウキビ畑で汗を流して得たバイト代で、FRP製のタイムカプセルを購入したそうだ。
20年前の思い出がよみがえったことだろう。
その子供時代のオヤツは、サトウキビやパパイヤが多かったようだ。
さらに先輩達にきくとアダンの実、バッタ、セミ、カタツムリといったものも出てくる。
しかし各世代に共通なのは行事の時に作られたパナパンビンだ。
一家の分だけでなく、親戚の分も作ったそうだ。
ずっと以前はアワの粉を使い、今よりずっと硬いものだったそうだが、今では5軒ほどの作業場があり、小麦粉、牛乳、卵と塩で造って売られている。
パナは花、パンビンは天ぷらの事で、3本の輪が重なって根本でキュッとねじられ、花のように見える。
さらにアーサ(のり)が入ったものは、磯の香りがする。
味は素朴で噛んでいると美味しくなってくる。
歯ごたえはサクサクとパリパリの間だが、作り手によって違う。
実を言うと多良間に来たときは、パナパンビンを美味しいお菓子とは思わなかった。
先日ホームページ参会者に多良間のお菓子セットを送った時も、ウーヤキガアスの方がうけた。
ウーヤキガアスは黒糖入りの揚菓子で、濃い茶と薄い茶の帯がナルト状に見えるスライスで、甘い。
どうしても甘いお菓子にならされた舌は、甘みだけを感じだがるようだ。
多良間の子供達もパナパンビンの美味しさを受け継げるのだろうか。
そんなお菓子に会いに作業場に行くと揚げたてを食べることが出来る。
私がパナパンビンの美味しさを知ったのも、この揚げたてを食べたからなのだ。
袋詰めのものは、那覇や宮古の空港でも買えるが、揚げたては多良間に来ないとね。
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9月10日 八月踊りの担い手
旧暦8月8日から10日まで、多良間の八月踊りが行われる。
今年は9月24日から26日になる。
私のホームページには色々な方が来てくれる。
その中の一人でハンドルネーム「スーさん」は、奄美大島宇検村芦検での「八月踊り」に関する研究を発表している。
今年の2月に南海日々新聞にのった紹介文を読むことが出来た。
芦検の豊年祭は集落全員(400名弱)が参加し、新暦の8月15と16の両日に、昼間は相撲を取り、夜になって八月踊りを踊る。
八月踊り歌は31曲もあり、初日夜中まで踊って、残りは2日目夜に。
歌は、地元と東京の芦検民謡保存会が伝承し、運営は青年団、壮年団、婦人会といった世代組織を中心に行う。
多良間の八月踊りも人口の減少で、参加の制限がなくなるといった変化が見られる。
首里王府時代人頭税の「皆納祝い」として始まった頃は、島の役人も日々農作業する仲間として民俗踊りをしていた。
しかし家計図を持つ士族として明治中期から古典踊りや組踊りを独占的に行うようになった。
平民が参加したければ、お金を払って縁組みをし、五円侍と呼ばれた。
いかにも階級間の対立の構図があるように見えるが、人頭税廃止に伴い消えゆく娯楽を残す理由を探し当てたように思える。
現在国指定の重要無形民俗文化財となっているのも、組踊りがあればこそれあろう。
今では人口減少で、元士族に限れば伝承できなくなってしまったが、組座、獅子座、狂言座といった座は残っている。
これからも多くの人を魅了する祭として伝承されていってほしい。
私の生まれた静岡県の農村の豊年祭は、甘酒を振る舞うだけのものだった。
しかし町からの転入者が増え、今ではハッピ姿で屋台を曳いて歩く。
人家があればにぎやかだが、田畑の中は静かに通り過ぎる。
なぜ田畑の神々に豊作を願わないのだろうか。
やはりその土地に合った祭の有様があるのだと思うのだが、融合は難しいのだろうか。
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9月24日 多良間シュンカニ
多良間島に来て間もなく「島のむかし歌」という本で、多良間には多くの歌が残っている事を知った。
「たらまゆう」というビデオもあって、普段接する姿とは違う、多良間の心に会えた気がした。
三年前は干ばつの年で、久しぶりにクイチャーが行われ、毎晩のように参加させて頂いた。
多良間のクイチャー踊りは簡単であるが、エーグ(歌)が色々あり面白い。
その年は「多良間シュンカニ大会」が行われ、多くの方のシュンカニを聴く事ができた。
三線にのせて歌う方よりは、伴奏のない歌だけの方が多かったように思う。
多良間村史では大正期に三線が付けられたとあるので、伴奏のないのが本来なのだと後で知った。
首里王府時代、多良間島に赴任した役人は現地妻(ウェーンマ)を囲い子を成すが、二年もすると転勤して行き、ウェーンマと子が残される。
その別離の悲しみを歌ったのが多良間シュンカニである。
様々な歌詞があったという。
そこで数年前に多良間村文化協会が歌詞を統一し、シュンカニ大会もこの歌詞で行われた。
歌詞の大意は、
「前泊港への道を、坂を下って見送りに浜に行きましょう。
片手に子供を連れ、片手に酒瓶を持って。
東に立ち上がる雲の様に立派になって戻ってくださいね、あなた。」
といった感じだ。
多良間シュンカニを習ってきた多くの方にとっては、知っている歌詞と違っていて衝撃を受けられたかもしれない。
見送りに行くという内容に統一されたようだ。
ところで多良間の人達は、多良間以外でシュンカニが聴けないと嘆く。
それは発音が宮古なまり、八重山なまり、首里なまりであるからだろう。
多良間の人達が発音に厳しい事だけは、知っていて欲しい。
台風16号で、5日に出た船が18日になっても帰ってこない、かつての別離は大変な事であったはず。
いつかは歌えるように成りたいものだ。
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10月8日 多良間のマッツー
凧揚げで有名な静岡県浜松市の隣で生まれたので、よく凧をあげていた。
遠州の空っ風と呼ぶ猛烈な西風が正月を挟んで3ヶ月ほど続く。
冬になると駄菓子屋に凧が並び、毎年買っては田んぼのあぜ道であげていた。
浜松の凧を小さくした作りで、四角の中心を太い竹が縦に通り下に飛び出している。
武者絵が描かれていた。
糸付けは上の左右と真ん中下から3分の1の3点。
尾は1本で真ん中の竹にくくりつける。
風が程良いと鋭い上昇を見せるが、ちょっとバランスが悪いといやいやをして田んぼに突き刺さった。
多良間に来てふるさと民俗学習館を訪ねたとき、凧(カビィ゜トリ゜=紙の鳥)の種類の多さに驚いた。
マーカビィ゜トリ゜、カープヤ、ムカド(六つ角) 、ヤカドゥ(八つ角)、コッキ(国旗)、トケイ(時計)、トウツム(提灯) 、ヨゥカニス(ツバメ)、シュシャ(セミ)といった種類があり、さらにパビ
ル(蝶)という凧糸にそって吹き上がる仕掛けまであった。あげるのはマッツーの日である。
マッツーは多良間の行事の最後という意味で、今年は10月25日である。
この日神様は大きな岩に降りて来るという。
そのため朝早くから畑に出てはいけないし、午後3時には畑から帰らなくてはいけない。
糸付けが2カ所のカープヤは女の子も揚げていた。
中学卒業までに全ての凧を作ったという男性もいた。
でも最近はほとんど凧を見かけない。
私が見たのも公民館まつりのような行事で青年団が子供達に指導した1回だけである。
今年はニシ(北)風の中でカープヤかマー(真の)カビィ゜トリ゜を作ってあげてみたい。
先日来のアフガニスタンに関する報道で、タリバンの禁止令の中に、「凧揚げ」があった。
戦争の連絡などにも使えるので、それを禁じたというこ とだろうと思った。
凧揚げの出来る平和な社会に早く戻って欲しいものだ。
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11月5日 ナガサキの浜
サッカーで実家に近いジュビロ磐田の活躍が報じられると、つい応援してしまう。
ただ残念なのは、尻下がりのはずの磐田の発音が平らな事だ。
思えば川淵チェアマンがジュビロの一部リーグへの昇格発表で、イワタを平らなフレーズで発音した時から違和感があった。
みなさんもチョウチョを尻下がりでなく平らに発音したら、蝶々に聞こえるだろうか?
わずかな違いだが、アイデンティティーを失った寂しさがあった。
以前、多良間小学校の子供達の絵がテレビで紹介された時、ある子が多良間島の海水浴場であるトゥガリ゜ラ公園(ふるさと海浜公園)で海に潜って魚を見たところを描いていた。
そこを一般的には「ナガサキの公園」と呼んでいる。
その子も発音しやすい表現をしたために、アナウンサーは九州の長崎に行ったときの思い出と勘違いしてしまった。
本当のナガシャキィ゜は私にはナガシャ クに聞こえるのだが、子供にそう発音しろと迫ってもアナウンサーには聞き取れなかったろう。
その様子を見ていた教育長も小学校長もとっても残念がっていた。
みんなが立派に話して認められる事を期待していただけに、落胆は大きかったようだ。
私が多良間に来た頃と違って、多良間口での会話を生で聞く機会が増えた。
よくよく聞いていると何となくわかる。
ジュを丁寧に言うと行カジュで、私の生まれ故郷の行カズと同じ意味の「行こう」だったりする。
メッツの新城剛志選手が、英語を勉強しなくたって人間同士だから通じるよ、というのもなぜかうなずいてしまう。
ホームページたらまの間を訪れる多良間出身者が、黒島まで唄を勉強しにいった時、なぜか方言がわかったと書いていた。
研究によると多良間口は八重山から来て宮古の発音が混じったものであるようだ。
黒島との共通部分も多いのだろう。
世界中に多良間口が伝わって、正しく理解してもらえる日は来るのだろうか。
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12月3日 多良間とウミガメ
新聞が取り持つ縁というのがある。
私がウミガメと関わるようになったのは、ある自然保護団体の観察会へのお誘いからだった。
浜松市で生えた子ツバメが数万羽、馬込川河口の芦原で寝泊まりする。
例年その芦原が刈り取られてきたので、その刈り取りや護岸工事などをしないで欲しいというものだった。
現在は公園となり、若いツバメ?たちの住みかは残された。ツバメは浜松市の鳥にもなった。
春と秋に多良間を通り過ぎていくツバメたちに出会うとそのころを思い出す。
その河口のすぐ前に遠州灘海岸が、長く長く続いている。
そこにはアカウミガメが産卵に来る。
その卵の盗掘や浜を走り回る車による被害が続いていた。
本当は母ガメの産んだところで孵化できれば良いのだが、人だけでなく狐や野良犬による被害もあった。
そこで孵化場を浜に作り、卵全てを産卵後数時間以内に移動させる体勢を整えた。
卵の移動や昼間の子ガメ放流に反対する日本ウミガメ協議会からは批判されているが、浜松市を越えて静岡県によるウミガメ保護に、さらに車の海岸への立ち入りを規制する法律にまで発展した。
また多くの子供達の校外観察の場、自然研究の資料提供をしてきた。
多良間に来てウミガメが食料であること、自然保護のために卵全てを孵化場に運ぶことはできない事を知った。
沖縄県の規則によれば、研究機関や教育機関が目的をもって申請すれば卵の一部を移動する許可を得られる。
またウミガメの成体捕獲は、実績のある那覇や石垣の漁協と水族館に割当がある。
ウミガメを食べたい人は、そこから買うことになる。
多良間ではまだあまりウミガメ保護の気運は見られない。
沖でカメをとれば問題はないと考えている人もいる。
去年は卵を持ち去った人もいた。
今年多良間島に上陸したカメは確認できた限りでは2頭だけである。
なぜ減ってしまったのかという調査から始めれば、カメも通わぬ島からの脱却が可能かもしれない。
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12月31日 多良間にも春が来る
間もなく45年間の幕を閉じる沖縄タイムス・ホールで行われた琉球舞踊の公演で、受付をしていた。
舞台の美しさは格別であった。
しかし年輩のお客様が多く、階段で3階まで上がって息を整えている姿をよく見かけた。
またホールの中、多分入り口の階段で転ばれた方もいたようだ。
次からは使い勝手を求めて会場を移るが、45年前の人々の先を見る目があったればこそ、これからの舞台も盛り上がっていくのだ。
一方多良間新空港の工事も進んでいる。
空港ターミナルは、旅行者など出来るだけ多くの人が使い易いユニバーサルデザインをさりげなく実現してほしいものだ。
私が開設しているホームページ「たらまの間」も、見に来られる方の楽しみになるように改造をしている。
郷友会の掲示板だけでなく、今後多良間の言葉(多良間口)を集める辞書や散策コースの案内などを設置していく。
ところで、多良間の正月はウイヌウダミと第19回新春ロードレースから始まる。
4日は冬休み中の成人式。多良間は離島の離島ですから。
8日には岩手県の宮古市から子供達がやって来る。
1860年1月に多良間島に宮古の善宝丸が漂着し、その縁で交流が続いている。
海の真ん中に島があって良かった。
ウイヌウダミは琉球王朝時代は、王国の繁栄を祈願し「上の御為」と書いた。
今では村民の健康と村の豊作が祈願される。
私は3回ではあるが多良間神社と運城御嶽(うんぐすくうたき)を回った。
どちらも、神棚の左右の柱に同じ漢詩が書かれている。
みなさんが幸せな明日を迎えられる事を願い、それを書き写しておく。
春満乾坤福満堂
天増歳月人増壽
天地に春が訪れ、このお堂にも幸せがいっぱいだ。
また一年が経ち、あなたはまた一つ長生きされたんですね。
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